今回は、なぜ「スーパープレイヤー」=「良い指導者」ではないのか?というテーマの記事です。とても興味深いテーマの動画を拝見したので共有させていただきます。
会社の先輩やスポーツの世界で、スーパープレイヤーではあったものの指導者(上の立場)になったらあまり良い指導ができていないと感じる人、いないでしょうか?
「スーパープレイヤー」=「良い指導者」とは限らない
この認識がある方は多いと思います。実際この2パターンの人たちには求められている能力が違うという点があります。そのためこの認識は正しいともいえるのですが、、
しかし実際問題、仕事で考えてみるとスーパープレイヤーがそのまま出世して指導者になっているというケースが大半なのではないかと思います。分かりやすい例を挙げるとすると、野球や営業の世界ではここが切り分けられていないと思います。スーパープレイヤーがそのまま指導者になっているのです。
一方、サッカーや映画などの職種ではここが切り分けて考えられています。サッカーの監督はそこまでの名選手ではなかったり、映画監督が名俳優ではなかったりと、名プレーヤーであったかどうかは関係なしに指導者としての才能がある人がそのまま指導者をするといった形態となっていると思います。
冒頭で言ったように、スーパープレイヤーと指導者とでは求められている能力が違っているので、後者の切り分けて考えるという方が正しいと言えるのです。
肌感覚ではなんとなくわかっているこの問題ですが言語化するのは難しい。。そんな問題を分かりやすく言語化されている動画を拝見して共感したのでその内容を共有させていただきます。最後までお付き合いください。
参考にさせていただいた動画↓
スーパープレイヤーの指導者としての資質
- 「スーパープレイヤー」=「良い指導者」とは限らない
- スーパープレイヤーが指導者になって失敗しているパターンはどのパターンなのか
この2点について解説していきます。
一般的に「良い指導者」には”感覚を言葉にする能力”が必要とされがちですが、それ以上に必要なこととして”タイプの違いによる指導”が挙げられています。
タイプの違いに合わせられるかどうか
「タイプの違いに合わせて教えられる指導者」=「良い指導者」
この定説に沿って話を進めていきます。
動画内では例として野球の話が紹介されていて、
- 学力が偏差値50の学校で野球を教えている先生
- 学力が偏差値70を超える超進学校で野球を教えている先生
この2人の指導論が紹介されていました。
偏差値50の学校で野球を教えている先生の話
まず偏差値50の学校で野球を教えている先生が言っていた話では、例えば「英語の授業で一番集中するところはどこか?」というと、”先生が書いた板書を自分のノートに書き写すとき”に一番集中しているそうで、次に集中しているのが”問題を解くとき”、そして一番集中していないのが”先生が説明しているとき”とのことでした。
本来これは逆にすべきで、先生が言っていることを理解しようと集中して聞くという点が大事なところです。この学校の生徒に共通するのは自発的に考えて行動をしていないというところ。
そしてその先生が野球部で「練習を始める前にグラウンド整備をしろ」と言えば、生徒たちは言われたことはやるので実際にグラウンド整備をやります。ただ次の日になるとやっていません。なぜなら言われていないから。「いや今日は言われてないんで」と言ってやらないとのことでした。
では野球を教えるとなった時に、指導論の際によく言われる「自分で考えてやらせる」という理論があると思うのですが、言われたことしかできないタイプには全く通じません。
言われたことしかできないタイプに合った指導の方法があるというのです。
それが「近くで寄り添って見てくれている感」です。
近くで寄り添って見てくれている感
近くで寄り添って見てくれている感。
要は「自分で考えてやれ」というのは正論で最終的にはそうなってほしいものの、初手でこれをやってもこのタイプにはそれはできません。
なので例えば「ゴロを腰落として捕れ」と指導するとすると、遠くから「自分で捕れるように考えろ」というのではなく、実際にその生徒の近くまで行って腰を触って「こうやって腰を落としてな」と言って指導するのです。
要は、この指導をすることによって「このコーチちゃんと俺にかまってくれている」「俺のことをちゃんと見てくれている」と思ってくれるというのです。
このタイプにはこれくらいのやりすぎなくらいのアプローチが必要だということです。
偏差値70を超える超進学校で野球を教えている先生の話
一方で、超進学校の高校で野球を教えている先生が言っていた話は、先ほど紹介した話の全部逆でした。
英語の授業で一番集中しているのは、”英語の先生は何を言っているのか、何を考えているのか”という点だそうで、”板書に関しては超適当もしくは板書しない生徒もいる”そうです。
さらに、先生が言っていることを理解するということに加えて、それが「どういう意図で言っているのか?」「この人はどういうタイプなのか?」等ここまで考えているとのこと。
この超進学校では野球の指導法も先ほどの「近くで寄り添ってくれている感」とは大きく異なります。
こちらの先生が重視している点がこちらになります。
あまり「答え」は言わない。
あまり「答え」は言わない
自分で考えることができるタイプなので、情報だけを与えて「答え」は言わず自分で考えさせます。
選手同士でミーティングなどであーだこーだやっているのを遠くから見ている感じ。
そのやっていることの方向性があっているのかどうかだけをチェックしているというイメージで教えているというのです。
前者の教え方とはまったくもって違うことが分かると思います。
なので指導するとなっても、生徒のタイプがこれだけ異なるので、プレイヤーから指導する立場になったらここを的確に合わせていかなくてはならないということになります。
自分の成長パターンがないあるいはわからない
話を戻して、なぜ「スーパープレイヤー」=「良い指導者」になりえないのかという話に戻ってくると、往々にして言えることが、スーパープレイヤーはその分野においては元から偏差値80であったパターンが挙げられます。
どういういことか?解説していきます。
指導者がもともと偏差値80だったパターン
しっかり寄り添って見てくれている感で手取り足取り近くで指導されて自分の能力を上げていったというパターンでもなければ、自分で考えて自分のスタイルを自分で築いていってスーパープレイヤーになったという訳でもない人種が存在します。
それが、元からその分野においてはずっと偏差値80で一番で居た。こんなタイプです。
この人が指導者側に回ると「何もできない状態」となります。
もしくは、自分の成長していったパターンを目の前の生徒にガッツリ当てはめてしまうパターンも存在します。
「俺はスーパープレイヤーになった。けど元は大したことはなかった。で、こうやって俺が成長できたのは自分でいろいろ考えて自分のスタイルを自分で構築できたからだ」と思っている人が指導者になった時に、そのやり方一本で通してしまうと良い指導を行うことは難しくなるのです。
結局は生徒それぞれのタイプに合った指導の仕方が必要になってくるということなのです。
まとめ
今回は、なぜ「スーパープレイヤー」=「良い指導者」ではないのか?という内容の記事でした。最後までご覧いただきありがとうございます。
こちらの動画を参考にさせていただきました。
私自身も、今まで生きてきた中で先生であったり先輩であったり上司であったりと、「この人の教え方はわかりやすいな」とか「この人の言っていることはスッと入って来るな」とか、逆に「この人の教え方はちょっとな」とか「この人は何を言っているのかよくわからないな」とかいろいろな場面に遭遇してきました。
自分のタイプと相手の指導の仕方がガチッとハマらないとなかなか良い指導者と言われる人に出会うのは難しいなと感じました。肌感覚で感じているこの問題をうまく言語化されている動画に出会えてよかったなと思います。
よく自分が上手くできないときに自分を責めてしまうパターンがありますが、このように教えてもらっている人とのタイプの相違でうまくいっていないパターンもあるということを認知しておくだけでも少しは心に余裕が持てるのではないかなと思いました。他責はよくありませんが、全部自分で背負うのもよくありません。自分に合った指導をしてくれる人に出会えるといいなと思います。また指導する立場になった時には相手のタイプに合わせて指導ができる人になりたいです。
タイプに沿った指導の仕方を考えてみよう。良き指導者に巡り合おう。
ではまた。
別件ですが、コーチングに関するこちらの本もおすすめなのでのっけて置きます。
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