ふと考えることがあります。
今でも関係が続いている友達が、なぜか高校時代の友達が多いなと。
もちろん、小学校や中学校にも友達はいました。大学にも仲良くしていた人はいました。
でも気がつけば小中学校の友達とは自然に疎遠になり、大学の友達ともなかなか連絡を取ることがなくなってしまいました。
一方で、高校の友達とは今でも不思議と繋がっています。
頻繁に合うわけではない。
毎日連絡を取るわけでもない。
それぞれ生活も仕事も変わっている。
それなのに久しぶりに会うと、どこかすぐに戻れる感覚がある。
この違いは何なのだろう。
最近、自分なりに考えてみて思ったのは、高校時代の友達は「完成された自分」ではなく、「未完成だった自分」を知ってくれている存在だからなのかもしれないということです。
今回は、「高校の友達が、なぜか一番長く続いている理由」をテーマに記事を書いていきます。あくまでも持論ですので、「こんな考えがあるのか」くらいにとどめて読んでいただけたらと思います。
高校時代は、まだ自分を作りきれていなかった

高校生の頃の自分を思い出すと、当たり前ですが今よりずっと未熟でした。
今振り返れば、悩み方も幼かったし、考え方も狭かった。
でもその分、今よりも素に近い状態で人と接していたのかもしれないとも思いました。
もちろん、高校生にも見栄はあります。
友達にどうみられるかを気にしたり、クラスでの立ち位置も気にするはずです。
好きな人の前でかっこつけたり、くだらないことで傷ついたりもすると思います。
それでも、大学生や社会人になってからの「自分の見せ方」とは少し違っていた気がします。
高校時代は、まだ自分というものが完成していない。
だから、隠そうとしても隠しきれない。
ダサいところも出ます。
弱いところも出ます。
情けないところも出ます。
何に悩んでいるかが、なんんとなく周りににじみ出ています。
そして、そういう未完成な部分を、お互いに見ていたのが高校時代の友達。
今思うと、高校の友達との関係には、そういう「カッコつけきれなかった時代を一緒に過ごした感覚」があるのかもしれないと思いました。
さらけ出したというより、隠しきれなかった
「高校の友達には自分をさらけ出していた」
そういうと、少し美化しすぎかもしれません。
実際には、意識してなんでも話していたわけではないと思います。
本音を全部打ち明けていたわけでもないはずです。
むしろ、言えなかったこともたくさんあるでしょう。
でも、高校時代は良くも悪くも、生活の距離が近いです。
毎日同じ教室にいて、同じ時間割で動いて、同じ先生の話を聞いて、同じ行事を経験する。
部活があれば、放課後も一緒に過ごす。
テスト前の焦りも、進路の不安も、恋愛の空回りも、しょうもない笑いも、なんとなくで共有している。
そういった日々の中では、完璧に自分を取り繕うことができません。
寝不足の日もある。
機嫌が悪い日もある。
落ち込んでいる日もある。
調子に乗っている日もある。
それをお互いに見ていました。つまり高校の友達には、何か特別な告白をしたから深い関係になったというより、日常の中で、隠しきれない自分を見られていたという感覚があると思います。
そして、それでも関係が続いていたという事実。
ここが大きいのだと思います。
「弱さを見せたうえで受け入れられた」
というより、
「弱さがにじみ出ていたのに、それでも一緒にいた」
という感覚。
だからこそ、今になっても安心感があるのかもしれません。
大学の友達には、どこか一線を引いていた
悪く言うわけではありません。そこはご承知おきください。
一方で、大学の友達との関係は少し違ったなと思います。
大学はとても自由です。
クラス単位のつながりは薄くなり、自分で人間関係も選べるようになります。
授業もバイトもサークルも、それぞれが別軸で動いています。
その自由さは楽しい反面、人間関係に少し距離が生まれやすい気がします。
大学生になると、少しずつ「こう見られたい自分」が出てきます。
ちゃんとしていると思われたい。
面白い人だと思われたい。
浅く見られたくない。
ダサいと思われたくない。
将来のことも考えている人間に見られたい。
高校時代よりも、少しだけ自分を”編集する”ようになる。
もちろん、それが悪いわけではありません。
成長するということは、自分の見せ方を覚えることでもあると思います。
ただ、その分どこかで一線を引いていた気がします。
仲はいい。
一緒に遊ぶ。
飲みにも行く。
旅行にも行く。
楽しい思い出もたくさんある。
でも、心のどこかでは「この部分までは見せないでおこう」と思っていたことがあった。
自分の弱さや情けなさを、全部は出すことがなかった。
大学の友達が浅かったという話では決してありません。
ただ、自分自身が高校時代よりも少し器用になってしまった。
人との距離感を覚えてしまった。
その結果、仲良くなっても、どこかで”社会に出る前の人間関係”のような、少し整えられた関係になっていたのかもしれないなと思いました。
社会人になると、さらに「役割」が増える
社会人になると、人間関係はさらに複雑になります。
仕事上の立場。
収入。
会社名。
肩書き。
結婚しているかどうか。
子どもがいるかどうか。
住んでいる場所。
休日の使い方。
お金の価値観。
そういうものが、少しずつ人間関係に混ざってきます。
もちろん、社会人になってからも本当に仲良くなれる人はいると思います。
むしろ、大人になってからのほうが価値観の合う人と出会いやすい面もあると思います。
でも一方で、社会人の人間関係には、どうしても「役割」がついてきます。
会社の人。
取引先の人。
趣味の場で出会った人。
夫婦ぐるみの知り合い。
親としてのつながり。
そこには、どこか”ちゃんとした自分”でいようとする感覚があります。
仕事の愚痴を言いすぎても良くない。
お金の話をしすぎても良くない。
家庭の事情を話しすぎても重いかもしれない。
弱音を吐きすぎると、相手にどう思われるだろう。
そう考えて、自然と無意識にブレーキを踏む。
これは大人として必要なことでもあります。
誰にでも何でも話せばいいわけではないし、距離感を持つことは大切なことです。
ただ、その分、高校時代のような「何者でもない自分同士」の関係は作りにくくなるのだなと思いました。
高校の友達は、肩書きの前の自分を知っている
高校の友達が特別なのは、今の肩書きや生活の前の自分を知っているからかもしれません。
仕事で何をしているか。
どれくらい稼いでいるか。
結婚しているか。
どんな暮らしをしているか。
そういう今の情報もありつつも、それ以前に、もっと根っこの部分を知っている。
くだらないことで笑っていた自分。
調子に乗っていた自分。
悩んでいた自分。
自信がなかった自分。
夢中になっていた自分。
今思えば恥ずかしいことを真剣に考えていた自分。
そういう自分を知っている人の前では、少しだけ力を抜ける。
「ちゃんとした大人」として会わなくてもいい。
「今の自分を説明しきらないといけない」という感じも薄い。
でも少し話していると、だんだん昔の空気に戻っていく。
それは、過去に戻りたいということではなく、今の自分の奥にある。昔から変わっていない部分に戻れるということなのだと思います。
小中学校の友達とは、なぜ疎遠になったのか
ここもあくまでも私の話です。ご承知おきを。
では、小中学校の友達はどうでしょうか。
ここも少し不思議に思います。
小中学校の友達も、長い時間を一緒に過ごしていたはずです。
むしろ高校よりもっと幼いころを知っています。
それなのに、なぜ疎遠になってしまったのか。
自分なりに考えると、小中学校の友達は、まだ自分の輪郭がはっきりする前の関係だったからかもしれません。
小学生や中学生のころは、友達になる理由がかなり環境に左右されます。
家が近い。
同じクラス。
席が近い。
親同士が知っている。
もちろん、その中にも本当の深い友情はあると思います。
でも自分の場合は、小中学校の関係は「自分で選んだ」というより、「同じ場所にいたから自然とできた」感覚が強かったのかもしれません。
高校になると、少しだけ自分の意志が入ってきます。
進学先も分かれる。
価値観も少し見えてくる。
部活やクラスの中で、自分に合う人や合わない人がなんとなくで分かってくる。
完全に大人ではないけれど、完全に子どもでもない。
その中途半端な時期にできた関係だからこそ、今も残っているのかもしれません。
友情は「濃さ」だけではなく「時期」も大きい
人間関係は、どれだけ長く一緒にいたかだけでは決まらないのかもしれません。
小中学校の友達とは長い時間を過ごしていても、疎遠になることがある。
大学の友達とは濃い時間を過ごしていても、少し距離ができることがある。
社会人になってから仲良くなっても、どこか役割をまとった関係になることがある。
逆に、高校時代の友達とは、頻繁に会わなくても関係が続くことがある。
それには、出会った「時期」が大きいのかもしれません。
高校時代は、自分が自分になっていく途中だった。
子どもっぽさも残しつつ、大人ぶりたい気持ちもあって、でもまだ全然完成していない。
そんな不安定な時期を一緒に過ごした人には、特別な記憶が残る。
お互いの完成形ではなく、途中経過を知っている。
だからこそ、今の姿が変わっていても受け入れやすい。
高校の友達とは、今の自分同士であっているようで、実は昔の自分たちも一緒に同席しているような感覚があるのかもしれません。
無理に昔の関係を取り戻さなくてもいい

ただ、こういうことを考えると、「大学の友達とももっと深く付き合うべきだったのかな」とか、「小中の友達と疎遠になったのは寂しいことなのかな」とか思うこともあります。
でも、必ずしもそうでもない気もします。
人間関係には、それぞれの役割があると考えます。
小中学校の友達には、小中学校のころの自分を作ってくれた意味があります。
大学の友達には、大学時代の自由さや楽しさを一緒に過ごした意味があります。
社会人になってからの人間関係には、今の自分に必要な刺激や学びがあります。
すべての関係が長く続く必要はないと思います。
長く続かなかったからと言って、その関係が浅かったわけでも、意味がなかったわけでもありません。
ただ、その中でも高校の友達は、自分にとって少し特別な位置にいる。
それだけのことなのだと思います。
嫌われる勇気
人間関係の悩みや、他人からどう見られるかを気にしすぎてしまう人には、かなり考えるきっかけになる本です。
君たちはどう生きるか
学生時代の悩み、人との関わり方、自分がどう生きていくかを考えるうえで、読む価値のある一冊です。
高校の友達は「素の自分に戻れる場所」なのかもしれない
結局、高校の友達が長く続いている理由を一言で言うなら、素の自分に戻れる場所だからなのかもしれません。
正確に言えば、昔の自分に戻るわけではありません。
今の自分は、あのころとは違います。
仕事も生活も価値観も変わっています。
でも、高校の友達といると今の自分の奥にある、昔からあまり変わっていない部分が自然と出てくる。
無理に立派に見せなくてもいい。
必要以上に説明しなくてもいい。
少し情けないことを言っても、笑って受けて止めてもらえる気がする。
それは、昔から何でも知っているからというより、未完成だったころの自分を知ったうえで、今でも関係が続いているからなのだと思います。
- 高校の友達が長く続いているのは、単に昔から知っているからではない
- 未完成だったころの自分を知っていて、それでも一緒にいてくれた記憶があるから
- だから大人になった今でも、少しだけ素の自分に戻れるのかもしれない
高校時代の友達は、完成された自分でなく、途中の自分を知っている存在。
カッコつけきれなかった自分、悩んでいた自分、くだらないことで笑っていた自分を知っている存在。
だからこそ、大人になっても、どこか安心して会える。
これはあくまでも自分の持論で、全員に当てはまる話ではないと思います。
でも、自分にとっても高校の友達が長く続いている理由を言語化してみると、このような形になりました。
高校の友達とは、ただ昔からの知り合いなのではなく、お互いの未完成さを知っていて、それでも一緒にいた人たちなのだと思います。
私自身友達の数は全然多くありませんが、今でも高校の友達とは、たまーに会って遊んだりごはんに行ったりします。
結婚式にも高校の友達は招待して、来てくれました。今年で28歳になります。高校で知り合ったのが15歳として、もう13年が経ちます。それでも関係が続いているのには何か意味があるのかな、言語化したいなと思って今回の記事を書いてみることになりました。
今後どのような人生、人間関係が形成されていくかは全く分かりませんが、今までの人間関係や今続いている人間関係を大切にしていきたいなと改めて思いました。
これからもよろしくです。
ではまた。


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